スタッフ日記
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悲しいから笑う
2007年8月17日   文 : 砂田麻美
写真 : 飯塚美穂

横山家の長男である純平は、医学部の学生だった頃、水の事故で亡くなった。
海で溺れた少年・良雄君を助けたからである。
夏になると、良雄君はお線香をあげる為毎年欠かさず横山家を訪れる。
今日は、この訪問シーンの撮影。横山家皆で良雄君を迎える。
ともすれば非常に深刻なこのシーンが、実は『歩いても歩いても』で最も
シニカルな笑いの絶えないシーンのひとつであったりもする。

だからなのだろうか。
時期を同じくして東宝スタジオで映画の撮影をしている三谷幸喜さんと、
映画監督の西川美和さんがセットの見学に訪れていた。
お二人に関わらず、今日はやけにスタジオ内の人数が多い。
いよいよ撮影がはじまった。
横山家の面々に囲まれて、ただ一人異質な存在である“太め”の(いや、この際はっきり
言うと“太い”)青年良雄君が見ているだけでおもしろい。
「ただ君がいるだけで」という世界である。
その良雄君に関する、それぞれの役のそれぞれのリアクションとコメントが、
これまたシュールで滑稽なのだ。
この家族の背景にあるのは長きにわたる哀しみなのに。

家族というのはその数だけ痛みがある。
時にその「痛み」は、死という深刻な要素をはらんでいることもあるかもしれない。
けれども、人が不幸な体験や状況下におかれていても生きていかなければならなかったり、
前を向いて歩いていかなくては行けない時、
また、特別不幸という訳ではないけれど満足のいかない人間関係をはらんでいる時、
この母親とかちなみ、そして子供達に代表される「ひょうきんさ」とか
「お調子者感」がどれだけ家族を救うのだろう。
そういう部分というのはニュース番組での事件なんかを聞いていると一切排除されていて、
むしろそれらを意識したり、探したり、感じたりするのは究極の不謹慎であると
いうのが、いわゆる常識に基づく考え方だ。
けれど、そういった人様には諸手を挙げてお見せできないシニカルな笑いを含みながら
ある人物や家族が生き続ける世界を見せてくれるのが、映画や小説といった表現媒体が
他の媒体には持ち得ない「希望」なのかもしれない。
母親役の樹木希林さんの演技を見ていたら、
漠然とそんな事を考えた。

今日は面白く、そして哀しいシーンだった。


 

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