2003年3月22日 是枝裕和
さて、少しメディアのことを書きます。テレビに関わっている(いた?)人間のひとりとして、そして視聴者としてテレビのニュース番組を見ていて一番腹立たしく思うのは、政治家たちに取材をする記者たちの弱腰な態度です。特に石原慎太郎などの強モテな人間が相手だと、「取材する」どころか「おうかがいさせていただく」といった態度で、逆に「もういいだろ!そんなこと」と一喝されて終わり。それ以上質問も追及もできません。要するに全く「つっこみ」が甘い。政治家のほうも、そのカメラやマイクの向こうに、一般市民がいるとはとても考えていないような"ふそんさ"です。「お前には公僕という意識は無いのか!」と僕はテレビの前で叫んでいます。今回の戦争におけるこの国の首相の態度も同様です。 だって、内容はともかくですよ、少なくともブッシュやブレアはテレビカメラの前で、国会で、つまり国民に対して必死に自らの正当性を主張し、理解を求めようとしたじゃないですか。そのことで彼らの主張する武力行使の「正当性」に対して、幅広い議論が生まれていく。それが権力者と選挙民の健全な関係でしょう。 日本の首相はずっとその「議論」を避け続けたあげく、その正当性と支持する根拠をアメリカが苦しまぎれに持ち出したのと同じ昨年11月の国連決議だ、と言い出しちゃった。 だったら、昨年11月の時点ではっきりと「武力攻撃はこれで正当」と言明すべきだよね。 そうすればその解釈と考え方に対して、僕たちは少なくとも4ヶ月という時間をかけて考え、議論し、批判することができたはずです。彼ら政府は「仮定の話には…」という形で、僕たちからその時間を奪ったのです。はっきり言ってそれは政治家としてあるまじき態度であり、それは内容への支持、不支持以前の誠実さの問題として徹底的に批判されるべきことだと思っています。 だって、ナメられてるわけですよ、彼に僕たちは。議会もメディアも。その怒りが「非戦」「反戦」運動に火を点けているのでしょう。メディア僕たちのその正当な怒りをこそ反映し、継続させるべきなのに、その役割をきちんと担っていないように思います。 新聞やテレビなどのメディアの存在意識は大ざっぱに言うと2つあると思います。 ひとつは僕たちが世界を知る為の窓としての役割。(今回に限らず戦争報道を見ていると、その情報がアメリカ発のものにかたよっていて、かなり窓がゆがんだり曇ったりしていると思いますが…) もうひとつは言うまでもなく権力に対するチェック機能です。日本の場合、このジャーナリズムとしての役割を大メディアが充分に果していない。これが一番の問題です。 なぜそんなことを書いているかと言うと、今日、普段ほとんど読む習慣の無い読売新聞を手にとってみて、正直怒りを通りこして驚きあきれちゃったからなんです。『小泉首相の「米支持」決断は正しい』と題されたその社説(社説ですよ!コラムじゃない)は、日米同盟の重要性と北朝鮮の危険性を並べたあげくアメリカ批判は「国益を損ねる」といった上で、急いで有事法制を整備すべきだ、とまとめている。 つまり北朝鮮に攻められた時にアメリカに守ってもらわないと困るから、今回の戦争は正当!賛成!と言っているわけです。しかも、「国益」のために「批判」を封じるというのは言論機関としてあるまじき、というか自殺行為です。 これはもう「現実主義」などと呼べるようなシロモノではなく、ただの打算です。その打算によってたくさんのイラク人の命が失われるわけです。その犠牲の上に守られる僕たちの国益っていったい何でしょう?そうやってアメリカの影で営ませていただく僕たちの生は…美しいでしょうか?尊敬できるでしょうか? 僕はできないわけです。もちろん攻められたり、殺されたりしたいわけではありませんが、その危機意識を右手であおるだけあおっておいてから、左手で与えられる汚れた生を「ありがとう」と言ってもらうつもりはありません。この新聞はもう自民党の広報誌レベルですよね。これが日本で一番たくさんの人が読んでいる新聞だという事実を考えると、この期におよんでも小泉首相の支持率が40%以上もあるという信じられない状況も納得できるなぁ…と思ってしまった。 たぶんこれは政治家はもちろんメディアの仕事をしている人にも誤解があると思うのですが、ジャーナリズムというのは必ずしも「国益」(この言葉自体あやしいとおもいますけれども…)に従うわけではないのです。つまり、日本という共同体の利益にはならなくても取材することもあるし、報じるべきことは報じるんです。そんなことはあたりまえのことなんです。被取材者が一般人である場合、その人権との間で悩むことはもちろん必要ですが、国益との間で悩んではむしろいけないんです。そうやって国益と呼ばれるものにメディアが添い、従った結果が、「戦争」に向けての挙国一致体制だったわけですから。そのことをメディア従事者は忘れてはいけない。 ジャーナリストがその規範として従うのは、共同体の道徳や国益ではなく、もっと大きな「倫理」であり、自らの内なる「正義」なのです。(これは「社会正義」とも違うのだと思っています)それをある人は「公共性」と呼びます。日本ではこの「公共性」と単なる共同体のルールに過ぎない「道徳」が区別されていないので、注意が必要です。「新しい歴史、公民教科書」等で古―い頭の新保守主義の人達が唱えているのは「公共精神」と自分では呼んでいますが、これは「君が代」「日の丸」を中心にした共同体の道徳への忠誠心でしかありません、念のため。 ジャーナリストがその仕事を「国益に反する」と政治家に批判されることは光栄なことですし、むしろ本来的な姿なのです。であるなら政治家に「うるさい!」と言われたことをこそ、もっとつっこむべきなんです。価値観の対立した権力とメディアの関係こそがむしろ共同体にとっては健全なものですし、個人にとっても自らと自ら社会を常に相対化して考える視線の確保という意味で重要なのです。(つまり、こちらのメディアの意義も自分自身を見つめる"窓"、といっていいのかも知れません) だからこそジャーナリストは権力者と距離をとらなくてはいけない。政治家とジャーナリストのもたれ合い関係の温床である「記者クラブ」こそ、まっ先に構造改革を進めなければいけないものであることは、間違いありません。読売グループの親玉が、政治家と料亭で仲良くメシを食べるなどというのは、ジャーナリストの風上にもおけない堕落した姿です。トップがそんなだからあんな社説になってしまうのでしょう、きっと。 その、共同体に従属しない視線や考え方に触れることによって、僕たちは共同体の住人としてだけではなく、つまり日本人であるという以上に、世界のことを考える意識を持ち、国益の対立を超えて、他国の人たちとも豊かな対話を交わすことが可能になるわけです。(ここで始めてナショナリズムを超えてインターナショナルな存在に人はなるわけです) インターネットの、国を超えたつながりと、それを利用した世界的な非戦運動の広がりは、インターネットが旧メディアに比べ圧倒的に国というわく組から自由な、インターナショナルメディアであることと、その可能性を示したのではないかと思います。 今回の読売の社説などは、この可能性に背を向けた視野狭窄な言説でした。 なんだか批判ばかり書きつらねてしまいました。ごめんなさい。 次はもっと前向きなことを書きますね。 |
© 1999-2008 KORE-EDA.com All rights reserved. |