是枝裕和からのメッセージ
  犯罪と責任と
2003年7月15日 是枝裕和


リハーサルも順調に進み、もうあと10日でクランクイン。最後の撮影が始まる。
今日はこどもたちとのリハーサルの様子などを楽しく書こうと思ったんだけど、どうしても許せない政治家の発言が毎日のように続き、しかも誰ひとりとしてきちんと謝罪をして辞任する人間がいないという状況を目の当たりにして、ここで少しでも文字にしておかないと逆に自分の中で尾をひくような気がして、筆の方向を変えることにした。

「加害者の少年の親は市中ひきまわしの上、打ち首にすればいい」という発言の裏には、人権というのは認められたり、認められなかったりするのだという認識があるのだと思う。加害者の親に人権なんてない、ということだ。子供を産まずに歳を重ねた女性もどうやら老後を豊かに暮らす権利が制限されるべきらしい。これも又、人は法の前でも平等ではない、ということだろう。
政治家の中には、植民地支配という暴力にも良いところがあったのだ、という妄想に浸っていたいという病気が流行っているらしい。たぶん今の自分に自信がなくて、なんとか自己肯定したいのだ。でも、はっきり言ってそんな甘えははた迷惑なだけだ。(では、原爆を落としてあげたおかげで、あなたたち日本人のその後失われたかも知れない多くの命が救われたのだから、原爆にも良いところがあったのだ、とアメリカに言われたとしたら、この政治家は何と答えるのだろう…)
 
つまり彼らは状況や条件によっては、人は人を殺したり、暴力で支配したりすることも肯定できる(許される)と考えているということだろう。

少年犯罪の責任が誰にあるのか?という問いに対する答えは人それぞれいろんな考えがあるだろうが、少なくとも「市中ひきまわし」にされるような罪に問われるべき法的責任は、その両親には無い。そんなことはあたりまえだ。あるとすれば道義的責任というやつだろう。ただし、政治家が今もし、声を大にして問う必要のある責任があるとすれば、それは警察や自治体という公的な役割を担っている存在の、職業的な責任なのではないだろうか?
その政治家は、そんなあたりまえのことがわからない人物なのかも知れないが、少なくともその罪の生まれた原因は社会に求めるのが、今のところ世界の常識だろうと思う。

少年を殺人に向かわせてしまうような病理が社会に存在しているのではないか?メディアの本来の役割もこの問いにあるはずだ。では社会は彼に“人を殺すこと”をどう教えているのか?

どうやらアメリカがイラクに爆弾を落とすことは暴力ではなく、逆に正義と呼ばれるらしい。相手の名前を奪うことも、土地を奪うことも、文化を奪ったことの責任も50年ウヤムヤにしておけばなんとかごまかせるようだ。そんな社会に僕たちは生きている。そんな今の日本の社会が、12歳の少年を殺人に向かわせたのではないか?社会は彼に「人の命を奪うことはどんなことがあっても悪なのだ」と教えただろうか?弱い者を暴力的に支配することはいけないことだと教えたのか?教えたのは逆のことだったのではないか?そう考えて、社会の罪を自らに背負い、社会改革に血を流そうとするのが政治本来の役割ではないのか?
だとしたら…、ひきまわされて打ち首になるべき人間がいるとすれば、それはその役割に反しむしろ踏みにじっている人間なのではないか?少なくとも自分という存在が、同時代の犯罪を生んだ社会の一部である以上、その犯罪と無縁に自分自身をイノセントな存在として加害者を攻撃するような恥ずかしい行為だけはすまい、と考えるのが第三者の最低限の守るべき倫理なのではないか?その程度の倫理すら、失われてしまったのだろうか?はっきりしているのは、大人が平気で人を殺すから、こどもも人を殺すのだということだ。決してこれは逆ではない。

「勧善懲悪」という言葉があの恥知らずな政治家の口から誇らし気に出た時に、彼は明らかに自分は善の側にいて、実は<悪>を生んでいる社会の一部を自らが構成しているのだという想像力は皆無だっただろう。もしそんな想像力があったら、政府の青少年育成の責任者らしい彼は、恐らく法的に責任はなくても道義的な責任を感じて辞職したのではないかと思う。
 
空爆されるイラクの人々の、植民地支配され、さらにそのことを60年経ってから再び逆の意味で肯定される人々の、産みたくても産めない人間の、哀しみや苦しみや痛みを想像できない人間に、「殺された少年の身になってみろ」と言う資格は、全くないと僕は思う。他人の責任について云々する資格は全くないと思う。

 

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