2004年4月12日
「言葉」って本当に難しい。相手に届く言葉で話すというのはなかなかできないなぁと思うんですが。僕は、ドキュメンタリーは「相手の言葉で語る」行為だと、番組を作り始めてしばらくして気付きました。そこが一般的な意味での劇映画との最大の相違点だと思います。「相手の言葉で話す」ためにはまず徹底的に相手の言葉に耳を傾ける必要があります。そのことでたとえば僕が使っている「希望」という言葉と、相手が使っている「希望」という言葉が、果たして同じ意味なのかどうかをさぐるわけです。大抵は違うわけです。そこには微妙にズレがある。それは、お互いに違う人生を歩いて来て、異なる価値観の中で生活を送っているのだからあたりまえです。「違う」ということが大前提にあって、その上でコミュニケーションを模索していく。作品化する時に気をつけなくてはいけないのは、目の前の他者に耳を傾けるのではなく自分の言葉や世界観で相手も覆ってしまう、自分の表現のパーツとして都合のいいコメントだけ切り取ってこちらの世界に奉仕させてしまうことです。"やらせ"もこのような行為の一種であることが多いのですが、こうなったらもう、ドキュメンタリーを撮る意味はありません。そこからは何の出会いも、発見も、自己変革も、コミュニケーションも生まれないと思います。 「相手の言葉で語ろうとすること」「相手の言葉に耳を傾けること」 そこから自分の文体を形成していくという、一見遠回りな行為の中に、ドキュメンタリーは輝きを見出すのです。それは、アメリカ流のディベートや「朝まで生テレビ」のバトルトークの対極にある言葉のやりとりだと思います。これはドキュメンタリーの現場を離れて様々なコミュニケーションの場にもあてはまるのではないかと僕は思います。そして今の日本の政治の場に最も欠けているのがこの能力だと思うんです。自分の真情を吐露する為だけにしか言葉を使えない。それが他者を傷つけるかも知れないという想像力も聴く力も無い。 「私は参拝したいからするのだ。どこが悪い!」というのは、ただ「自分の言葉」で語っているだけで、その言葉や行為がどのような形で相手に届くかは全く考えない、無責任な自己表出に過ぎません。そんなものは表現ですらない。ましてや政治家の言葉であっていいはずがない。他人は傷ついているのに、自分の書いたナレーションに涙するような―――もしディレクターだったらそんな最低なやつです。スリッパでうしろからハタかれます。 そもそもどんなに本人が「私的参拝だ」と言っても、それが国内外で政治的な波紋を広げてしまっている時点で、それは公的な行為です。本人が私的だと思っていたかどうかなどということは本人以外には全く意味が無い。だから「私的ですか、公的ですか?」という記者の問い自体がそもそもピントはずれなことだと思います(このことは宮台真司さんがいろんなところで書いています)。公的だろうが私的だろうが、その結果生じた社会的な影響に対しては、あなたは首相として公的に責任を問われますよ―――と、そうプレッシャーをかけるべきだと思っています。 いくら「人道支援なんだから、戦争に行くんじゃないんだから」と叫んだところで、相手がそう受け取ってくれなかったら何の意味もないでしょう、そんな言葉には。何しろ軍隊を相手の国に送り込んでいるわけですから。「愛情表現だろ」といくら叫んだって、「セクハラです」と言われたら当然それは「セクハラ」でしょう。言葉っていうのは口から発せられた時点で、半分はもう自分のものではない。そう考えなくてはいけないと思います。そのくらい繊細で微妙でしかも時として暴力的なものだから、特にメディアや政治家が使う場合には、慎重な上にも慎重さが求められるべきだと思います。 「真情」や「本音」を所かまわず吐き出すことが自分らしい行為で、そのストレートさが人気につながっているんだと錯覚している政治家(小泉とか石原ですが)は、やはり少なくとも「公」に関わるべきではないと、僕は思います。彼がどういう気持ちで「支那」という言葉を使っているかなんて他者にはどうでもいい。それを聞いた中国の人たちがどう感じるかが全てです。だって彼らにはその言葉は暴力なんですよ。それが公的な場で語られる言葉のルールでしょう。どうしても使いたいなら自分の小説の中で使えばいいと思います。それは止めるつもりはありません。僕は読みませんが。 今回、不幸にもイラクで人質にされてしまった人たちは、彼らなりに相手の言葉で「人道支援」というものをとらえたり、「ジャーナリズム」というものを本質的なところで考え、それを行為として実践しようとしたのではないだろうか・・・と、今ある情報からは僕、そう判断します。一部新聞の社説などは自業自得だと言わんばかりの批判を掲載していましたが、本来であれば大新聞の記者が自らの眼と脚で取材して、イラクの現状についての記事を書く立場であるだろうに、彼らが政府や軍の公報的な役割しか果たせなくなってしまって(サンケイや読売ですが)、チョウチン記事のようなものばかり書いて事足れりとしているからこそ、フリーのジャーナリストの眼を頼りにしてイラクの現状の一端に、僕などはかろうじて触れることが出来るのだと感謝していますし、現地で医療や教育に従事されているNGOの方たちには本当に頭が下がります。 それを、よくもまぁ・・・当の新聞が、安全地帯から声高に自業自得などと言えるのか、と僕は強い憤りを覚えました。 だってそもそも退去命令を出さなければいけないような状況を生んでいる元凶は占領軍の存在じゃないですか。日本の軍隊は、明らかにその一部を担っている。 その自分勝手で、相手には暴力としか受け取れない「人道支援」がほんとうの意味での人道支援を危険にさらしている。 そして「」付きの「人道支援」は、屏の中で井戸を掘っている。屏の中で井戸を掘るというその行為は、まさに「相手の言葉で語る」ことの対極に位置する行為でしょう。相手(この場合もちろんイラクです)に届くことを意図していない自閉的で自己満足な「支援」は、決して相互理解へは向かわない。 そう思います。 3人の民間人を犠牲にしてでも、多勢の軍人が屏の中で井戸を掘り続ける―――それはもう喜劇ですらない。耳をふさいで。「ここは非戦闘地域だ」と呟きながら。グロテスクですよ。その井戸からは、いつか石油でも出るのでしょうか?そして、派兵前は「反対」だったのに、派兵後は「もう行っちゃったんだから、頑張って」、そして今は「撤退するな!テロに屈したことになる!」。それらの現状追認の言葉たちからは、出会いも、発見も、自己変革につながるようなきっかけも全く見出せない、というのが今の僕の正直な感想です。それらの言葉たちからは、コミュニケーションを望まれていない気がするのです。そんな弱音を吐いている場合ではないですね。それでも語られる言葉に耳を傾け、想像力を豊かにしていくことしか、出来ることはないと思いますから。 今の自分を肯定する為に吐き出された本音以外の言葉を聞きたいし、自分も発したいと切に願っています。 是枝裕和
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