こども達を集めてリハーサルをしました。
ま、リハーサルとはいっても、なんというか、「久しぶり!元気?」という集まりだったのですが。夏の撮影は、置き去りにされたこどもたちの状況がかなり厳しくなっているので、感情の起伏がやや高めの描写になってゆきます。そのあたりの引き出し方を、彼らの中に探るというのが、今回の一番の目的です。
「そして映画はつづく」という本の中に、アッバス・キアロスタミの映画撮影現場の様子について書かれたところがあって、、、それを読むとキアロスタミはこどもから哀しい感情(表情)を引き出したい時に、映画自体のシチュエーションや物語とは全く関係のない状況で彼らを不安にさせて、その様子を切り取って物語の別の文脈の中にはめ込んだりしているのがわかります。
ま、だますわけです。
映画の現場という、それ自体フィクショナルな現場で行なわれるその行為を、一般的な道徳観にあてはめて倫理的に批判するつもりは無いのですが、同じイランの監督のアボルファズル・ジャリリなどは、明らかにそのようなキアロスタミの方法論とは違うやり方で、出演者との共通理解と信頼関係に根ざした演出を志しているようです。キアロスタミは自分が悪魔であることを引き受けているとも言えるのかも知れません。それを許しているのは自分自身の才能に対する自負でしょう、恐らく。
みなさんはどちらによりリアリティを感じるでしょうか?
何を以って“リアル”と考えるか?
ドキュメンタリーのリアルとフィクションのリアルの相違はどこにあるのか?
ここのところの僕自身の自問自答の現時点での答えが、たぶん今回の『誰も知らない』の中で、出ると思います。
是枝裕和