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クランクインします

2003年7月24日

いよいよ明日から最後の撮影がスタートします。ラストスパートです。
2週間ほどの撮影ですが、みな健康で、天気に恵まれることを祈っています。

せっかくメールをいただいたので、<一般学生>さんに一言だけ。
確かに僕は歴史の専門家ではないので、資料、史料的研究が充分ではないかも知れません。映画監督なのだから映画のことだけ語っていればいいのではないか?という疑問もあるでしょう。ただ自分としては、たとえ知識は充分ではなくとも、同時代の出来事に対して、自分の疑問に思ったことはここに書いておこうと考え、実行に移しています。そのことで読んだ人の中にまた新しい?が生まれればと思います。もし具体的にこのような史料を読むべき、というものがあれば、又教えてください。
 
僕自身は自分の考えを「自虐史観」だと考えたことは一度もありません。
もし<一般学生>さんが言っているのが「戦争は政治の一手段である」とか、日本の中国侵略は決して「侵略戦争」を目的にしたものではない…といったような「新しい歴史教科書をつくる会」や新保守主義の人たちの言っていることが根拠になっているのだとしたら、それに関しては、はっきりと僕は否を唱えますが…。

たとえば「新しい歴史教科書」の冒頭に記された「歴史を学ぶとは」には、こう記されています。
「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。」 

僕は歴史を学ぶことの一番の目的は「失敗に学んで二度と同じ過ちを繰り返さない」ということだと考えています。過去の善悪を批判したり、批評したりしないという態度からは進歩というものが生まれないと考えています。そもそも、多くの出来事からその歴史的事実をチョイスし、掲載する、ということ自体の中に批評行為は含まれているわけで、むしろ歴史認識とは時代と時代の批評のぶつかり合いなのだと思うのです。歴史というものに対して、そういう批評的な接し方しか、僕たちには不可能だという立場です。

過去の失敗を失敗だと認めることが自虐的だとは思いません。生きていく上で必要な態度だと思っています。そう考えたからといって、そのことを理由に戦争経験者を軽蔑したりもしません(僕の父がそうでした)。加害の経験を語り継ごうとしている方々の、その言葉に耳を傾けることが大切だと思っています。責任を取ろうとする態度こそが尊敬に値すると思っているからです。日本はかつての戦争に対して国としてやはり責任のとり方があまりにも不充分だったのではないか?というのが僕の“戦後”についての認識です。

是枝裕和