新作の映画「花よりもなほ」の編集に一区切りついて、ようやく又、ここに文章を書いています。御無沙汰しました。すみません。
4月末から京都で始まった撮影が6月14日にクランクアップして、東京へ戻って1ヶ月の編集、あっという間の4ヶ月でした。まだまだこれから音楽を入れたり、といった作業は続いていくのですが、ほぼ完成型は僕の中で見えたかな・・・というところまで来ました。
ここまで辿り着いてみてようやく「あぁ・・・今回やりたかったのはこういうことだったのかな」と、はじめて気付くこともあって、面白いです。「花よりもなほ」は今までの僕の作品に比べれば脚本も事前に書き込んでいますし、京都の撮影所の中に長屋のオープンセットを作っての撮影でしたから、今までのようにいきなり思いついて町中でカメラを回すといったようなことは無かったのですが、それでもやはり、撮り始めてから作品は生きもののように変化していきます。今回は、キャストのみなさんから出て来るアイデアやひらめきを受け入れる形でもそのような変化がうまれる、とてもスリリングで刺激的な現場でした。「答え」といったものは未だ見つかっていませんし、そんなものを求めて作っているわけではもちろんないのですが、きっとこの後の作業を通してまだまだ「あぁ・・・そうだったのか・・・」という発見が続くのでしょう。
完成は10月。公開はまだまだ先の来年の初夏!でしょうか・・・。お楽しみに。
そんなわけで『誰も知らない』については自分の中では随分前に一段落、というところではあるのですが、それでもDVDを観て下さった人たちから今も感想が寄せられ、それに触れることで又、発見があったりと、反芻する日々を送っています。8月22日には「お台場冒険王」というイベントの中で、フジテレビの笠井アナウンサーと『誰も知らない』を上映しつつしゃべる、という初めての試みにも挑戦します。久しぶりに人前に出るので、ちょっと今から緊張していますし、何より「観ながらしゃべるって!?」「何を?」という状況なので、心配です。どうなることやら・・・・。こちらももし、良かったらどうぞ遊びに来て下さい。
さて、本題。少し前に吉田さんという方から「危険」と題されたメッセージが送られて来まして、とても刺激的な、というか挑発的な(笑)内容だったので、これは何か反応しなくてはと思っていたので、ちょっと思ったことを書きますね。
吉田さんは、この『誰も知らない』がリアリティを欠いたファンタジーになっていると指摘されていて、その根拠のひとつとして「万引きのシーン」を取り上げています。「明の境遇に置かれた少年は、躊躇はしても最後は万引きをするでしょう」と。
すごく重要なポイントなんですけど、僕がどう考えたか、というと「しないとしたらどういう状況が考えられるだろうか?」ということだったんです。そこが出発点。で、友達に誘われる前に一度、コンビニの店長に疑われるという体験を彼にさせました。そこで住所を訊かれ、「警察」という言葉を店長から発せさせました。明としてはそのような結果を招いてしまうと、兄妹たちの生活が壊されることになりかねない。その危険性を察知しているからこそ、友達にゲームのような形で万引きを誘われても、しない。
そのように考えました。そしてそこにはまさに「ああいう子は万引きをするはずだ」という思い込みに対するアンチテーゼを含めたつもりでした。平泉成さん演じる店長は「お父さんいないの!?」と「それで万引きをしようとした合点がいった」というニュアンスでつぶやきます。まさに、それが世間の眼でしょう。僕は、明という主人公の中で起きている葛藤を、そのような「世間の眼」の届かないものとして描きたかったのです。
吉田さんはリアリティの無さのもう1つの理由として「明の言動が大人の方程式で理路整然と描かれていた」ことをあげています。
僕は明の言動を、理路整然と描きました。まさに大人のように。それは彼がこどもであることを奪われているからです。そして逆に、母や父であろう大人の男たちをむしろこどものように描いたつもりでいます。だから、その点に関しては吉田さんの指摘は的確だと思います。しかし、あえて作者として反論させてもらうとすると、もちろんこれは推論と僕なりの類似する実体験から来る想像ですが、明のような状況に置かれたこどもは、そのような「大人」としての振る舞いをするのではないか・・・と考えています。
僕はこの映画を、そんな「大人」として生きてきたひとりの少年が、ふとしたきっかけで誘われて野球をする、というそれこそ「こども」としての時間を過ごすことで、逆に永久にそのこども時代に別れを告げる話である、というように捉えていました。その為にも彼の言動は大人のそれとして描いておく必要があったと考えています。どうでしょう・・・・・。
吉田さんは僕が「置き去り事件のようなことが再発しないためにも映画を観て欲しい」と話していて、もしそう考えているのならこの映画は「まったくその意図に逆行する」と述べられています。「親に捨てられた子供はその程度の差はあれ、必ず自分自身に価値を見出さなくなるはず」で、「それが子供を自傷行為や他者への暴力、脱法行為に向かわせる」のだ、と。
つまり、このような状況に置かれたこども達のそのような行為を描いてこそ、社会への警告として映画がその役割を果せるのではないか? という指摘でしょうか・・・・・。
以前にも「この映画を観たら、バカな母親は、子供はほうっておいても勝手に育つと勘違いしてしまうのではないか?」といった趣旨のメールが寄せられていたことがありました。
吉田さんは「その影響について、監督はどのように責任を負われるのでしょうか」と書かれています。
まず、僕はこの映画を置き去り事件再発防止を目的として作ったわけではありません。僕の取材をした記者の方がそのような記事のまとめ方をしたことは、あるかも知れませんが、僕自身がそのような趣旨の発言をしたことは全く無いと断言できます。
すごく本質的な話なので批判を覚悟であえて書きますが、この作品を観た方々がどのような反応を示し、感想を持つかということに関して、僕は一切の責任を負うつもりはありません。「負える」という作者がいたとしたら、そのことの方がよっぽど危険だし、傲慢だと思います。表現とはそういうものです。だからその意味では吉田さんが言う通り「危険」を伴う行為だと思っています。だからこそ、その自覚は忘れずに慎重になる必要はもちろん求められるのですが、観た側の心理の動きは、はっきり言ってわかりません。作り手の立場の傲慢な発言だと思われるかも知れませんが、僕自身は観る側として他者の作品に触れるときにはそんな受け身の態度で接していないですよ、はっきり言って。
逆に言うと、例えばこの映画を観た100人が100人とも「ネグレクトはいけない。放っておいたらこどもは大変なことになる」といった同一の感想しか持たないとしたら、それはとても気持ち悪いとは思いませんか?
そのような画一的なメッセージしか観たものに生みだせないとしたら、それこそ、それは作品ではない、コミュニケーションですらない、洗脳であり、ただのプロパガンダに過ぎないのではないでしょうか・・・・。僕はそう考えます。
最後にひとつだけ。
吉田さんは「もし監督に今もドキュメンタリーの精神が生きているのなら」批判意見も載せてみては、と書かれていましたが、このホームページ上のメッセージには出来るだけ幅広い感想を掲載したいと思っていますから、個人的な中傷の類や、あまりに意味・意図の不明な文章である場合を除いて、批判意見も掲載するようにしています。
で、「ドキュメンタリー精神」というのが何を意味するのか僕には今ひとつわからないのですが、吉田さんのここまでの文章から想像するに、作品を通して社会にその「矛盾」を訴えて改善していくことを目的とするような態度を指すのだとしたら、それは「ドキュメンタリー」というものの捉え方自体が間違っていると思います。間違っているという言い方が強過ぎるなら、せまく捉え過ぎています。
「ドキュメンタリー」というものは、最初から目的が明解なプロパガンダとは異なり、(取材)対象との関係の持続とその変化を同時進行で記録していくものだ、と僕は捉えています。だから時として、当初意図していた方向とは全く逆の着地点に辿り着いてしまうこともあります。それが面白さであり、難しさであり、自由さであり、ドキュメンタリーの持っている「危険さ」であると思っています。そのような自由な「精神」は劇映画というジャンルに取り組む時にも忘れないでいたいと僕は思っています。今でも。
長くなりました。これで終わります。
刺激をされたので、又、少し、自分の中でも整理がついたみたいです。
それでは又。
是枝裕和