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モノローグとダイアローグ

2003年3月25日

戦争についての僕の"つたない"コメントに多くの人が反応を示してくれて、とてもうれしいです。どうもありがとう。コメントをもらえたことで、僕のひとり言は、対話になることが出来ました。

僕は常々インタヴューなどで「映画はあなたにとって何ですか?」と聞かれた時に「自分に一番合ったコミュニケーションの手段です」と答えています。

「自己表現ではないの?」と聞かれると「うーん」と考え込んでしまうんです。どうも自分の中でその言葉がしっくり来ない。「自己」も「表現」も。やはり「コミュニケーション」なんですね。

ドキュメンタリーの番組を作っている時にも思っていたんですけど、僕の場合、取材対象に何かこちらからアクションを仕掛けていって相手の傷口をえぐる-といったようなことよりは、「聞く」という姿勢でただそばにいることが多い。相手が話したくなるまで待ってる。耳としてそこに存在してる。あくまで受け身、リアクションなんですね。劇映画の演出でも、やはり基本的なスタンスは変わりません。役者やスタッフから出てくるものに耳を傾けるというやり方です。

最初はそのやり方に対して、そんなつっこみの甘いことで作品なんか出来ないと批判されたこともあるんですけど、僕は「聞く」というのは「話す」ことよりもずっと難しい行為だと、最近になってわかったんです。聞く人がいることで、もしいなければひとり言=モノローグや、もしかすると言葉にならなかったかも知れないことが、ダイアローグになる。「へぇ…。」という相づち1つで、それは豊かなコミュニケーションに変化するんだと思います。ディベートというのは「話す」テクニックを競うことだと思うんですけど、何かそれとは違った価値観で、評価の対象になりにくい、「聴く」という行為、「相手の気持ちや考え方に耳を傾ける」という姿勢が今一番人々から失われているのではないか…と考えています。きっと僕は「自己表現」という言葉に、モノローグ的な「一方通行」の匂いを感じているんだと思うんですね。

映画の撮影を又スタートします。役者と僕との、作品と僕との、作品と観る人たちとの、そして僕と観てくれた人との豊かなコミュニケーションの広がりを目指して。

是枝裕和