こんにちは。
『誰も知らない』春篇は無事にクランクアップしました。秋・冬とずっと室内での撮影がほとんどだったのですが、今回は兄妹4人で表に遊びに行くシーンを撮ったので、みんなも楽しかったみたいです。と言っても遊んだのはコンビニや工事現場ですが…。
次は夏休みの撮影になります。きっとまた、4人の子供たちはひとまわり大きくなって、僕たちの前に現れるのでしょう…今から楽しみです。
「戦争」についてのいくつかのメールに、僕自身もまた考えをめぐらせています。
boumさんからのメールにある「戦争」やそこから生まれる「痛み」が「始まる前に阻止する具体的な術がなかった」のではないか…というあきらめに似た気持ち。たぶんその無力感が多くの人たちを覆っているのだと思います。
僕自身もその感情と無縁ではありません。
ただboumさんのように、そのことをこうやって他人に問いかけるということは、本当にはあきらめてはないんだと思うんですよね。僕もあきらめてはいないから、こうして書いたり、作ったりしているんだと思います。そして、「具体的な策がない」と、多くの人に思わせてしまうことが、戦争を推し進めようとする側の人たちには、一番都合がいいのだということに気づくと、やっぱりそれは腹立たしい。
今、目の前の戦争を止める具体的な策は確かにそう簡単には手に入らないかも知れないけれど、あたりまえなようですが、「選挙」というとても具体的な形でその「あきらめ」を別の形で表現する術だってあるはずです。それはとても遠回りでしょうが、一番確実な具体策だとは思うのです。あたりまえすぎて書くまでもないですが…。
kentaroさんのメールにある「僕たちは、60年前を忘れるぐらい自由で豊かな暮らしができる環境にあります」「10年後、20年後のイラクの国民は今僕たちが享受できているような暮らしができるのではないか」という問い。
僕が問題だなと思うのは、kentaroさんが言う僕たちの「自由」で「豊かな」暮らしが、まさに60年前を忘れた上で享受されていることにこそあるのではないかと思うのです。イラクの人たちも僕たちと同じように、マックのハンバーガーとコーラを手にディズニーランドに行ける---ということが本当に自由なのか?それが民主化なのか?僕たちが手にしているのは本当の意味での平和な暮らしなのか?ということをやはり今問い直さないといけないのだと思うのです。kentaroさんも「一番がっかりさせられた」と言っているこの国と首相の選択を目の当たりにすると、やはり、少なくとも僕たちの暮らしは「豊か」で「平和」かも知れないが「自由」ではない。その豊かさも平和もアメリカから自由ではない。そして、アメリカから自由ではない平和を享受する為に、僕たちは沖縄に犠牲を強いていることを忘れてはならないのだと思うのです。僕が一度「絶望」すべきだと書いたのは、これら僕たちがただし書き付で手に入れてしまった「平和」という「既得権」を、そこから「」をはずし、本当の意味での自由や平和と向き合う為に、いったん手放す覚悟を意味しています。
それは難しいかも知れません。
ただ少なくとも自分以外誰かに責任を押しつけた上で、しかもそのことを見て見ぬふりをしながら手に入れた「平和」を、本当の平和だとは錯覚すまいと思うのです。
うーん、まとまりませんが、そんな感想を、お返事のメールを読みながら、持ちました。
またお便り下さい。
是枝裕和