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非定住という生き方

2003年5月15日

白装束の集団の住居や車に警察の強制捜査が入ったと、ニュースでやっていた。車の名義人と使用している人が違うという、いわゆる別件容疑(微罪)を口実としたもので、これは以前から警察が在日朝鮮人の人たちやその組織に対して行なって来たのと同様のやり方。(この場合、かつては外国人登録証不携帯というのがよく口実に使われていた)

テレビで見る限り、福井県の近隣住民たちは「マスコミが騒いで仕事にならないから静かにしてぇ」と、むしろテレビの取材のほうが迷惑そうだったけど。

自分と違う姿をしていたり、異なる神を信じていたり、違う生活形態をしていると、「なんとなく気持ち悪い」ということなんだろうと思う。理解できない。だからこわい。だったら理解しようとすればいいのになぁ…。メディアなんてその為にあるようなものなのに、今は逆にその相互理解(対話)の妨げになるような動きをしていることが多い。

そこには、“逆に”彼らから見たら自分たちも充分不気味なんじゃないか?という視点はどうも抜け落ちているみたい。喜び組やマスゲームに似たようなことは創価学会だってやっているし、お正月に皇居で日の丸を一斉に振っている姿は、過去の歴史が存在するだけに、アジア諸国の人たちから見たら充分不気味なんじゃないかと思う。

アメリカの侵略理由と同様に、「何かされてからでは遅い」というのが、どうもメディアや警察や市民にとっての“オウムの教訓”ということになっているようだけれども、僕は、やはりあの事件から学ばなくてはいけないのは松本サリン事件で被害者の家族を犯人視したことと、一連の事件を理由に人々の不安を煽って、テロ特措法だの、今回の有事法制だのといった市民の自由(思想信条の自由という大原則も含めて)よりも、国家権力の都合を優先するような法律を安易に許してしまう状況を政府に作らせてしまったという、メディアの“失態”にこそあると思っています。

以前ちょっと調べたことがあるんだけど、是枝という僕の名前は、もともと鹿児島県特有の名前で、大昔は山岳部で暮らしていた山伏を先祖に持つらしい。
つまり、白装束で非定住という、“不気味”な存在だったわけです、定住民から見れば。
政府にとってみればそのような非定住者が一番把握しにくいし、税金(年貢)も払わないわけだから、一番の管理対象になる。それゆえに明治時代までいた“サンカ”の人々と同様、定住化が進められて、生活形態としてはやがて失われてしまったわけです。(ヨーロッパ各地で定住化政策が進められているジプシー(ロマ)の人たちのようなものですが…)

そうやって手に入れた、みんなが同じような家に住み、同じような服を着て、同じ価値観の中で暮らすという“安心”が実は生きものとしての多様性を失うという、人間にとってはとても不健康な事態と裏表なんだろうと思うのです。
想像力が大切って、あちこちで繰り返し言っているけれど、これは何も相手の気持ちに同化するということではなく、自分とは違う価値観を生きる人々の存在と、その彼らが見ている私のとは違う世界像というものを、想像し認めるということでもあるわけで。むしろそういった“他者”の想像のほうがずっと重要なのかなと思っています。
えー、今週末に「誰も知らない」のこどもたち4人と1ヶ月ぶりに会います。そしたら又ここで報告します。

是枝裕和