昨日、渋谷のシアターコクーンで野田秀樹さんの『オイル』というお芝居を観ました。
とても完成度の高い、面白いお芝居でした。舞台の空間の使い方、特に上下の運動の見せ方(空から何かが降ってきたり、地下から何かが昇って来たり)が素晴らしく、勉強になりました。そしてやはり、松たか子さんの存在感は際立っていました。石油をめぐる現在のアメリカと中東との対立に、出雲の国譲り神話と、広島に原爆が落とされた後の、進駐軍支配下の日本という3つの時間を、例によって自由に交錯させながら、人々の心の奥底に“オイル”のように眠っている“復讐心”にスポットを当ててゆく―――非常に今日的な、同時代へのコミットの深い、それでいて全く説教臭くはない作品でした。
こんな作品を作り出したみなさんをリスペクトします。
ただ…ただひとつラストで、主人公が呼びさまされた復讐の感情をどうやって昇華させていくのか?という着地点が、このお芝居が日本的な神話世界を舞台のひとつに選んでいることと、原爆を落とされたという被害者感情がフューチャーされていることによって、ある種の政治的な危険性をはらんでしまったように思うのです。その一点だけの違和感が、それが着地点であるが故に、僕の中に芝居の読後感として残ってしまった。
別に劇に政治的な答えを求めているわけではもちろんないし、アメリカへの復讐の感情を忘れるな、という単純なアジテーションを野田さんが求めたわけでもないでしょう。
ただ、そこに、これも、そういう描写がどうしても必要だということではないのですが、アジアへの視線、“アジアに対する加害者の日本”という視点がもし重層的に導入されていたら、その先に描かれた“復讐心”という感情はより複雑な成熟したものになったのではないかと思うのです。それを求めるのは欲張りでしょうか…。アジアを描き込め!ということではないのです。そのような視線によって“復讐心”は相対化され得たのではないか?ということです。
原爆の記憶を忘却することを拒否するという態度を鮮明に打ち出すのであれば、もう一方の加害者の記憶も、忘れてはならない。それは相互補完的なものであるべきです。それがなかなか出来ないから、こんなに単純な“復讐”が世の中にあふれてしまうのではないかと思います。
そんなことを考えました。
"復讐"についての自分の考え方を深めることができて、お芝居を観ている間も、観終ったあとも、いい時間を過ごすことが出来ました。
是枝裕和